JUNKOWEB

【前編】陸上部転向、野球部退部、そして2浪。長森大将はなぜ野球に戻り続けたのか

 北信越地区大学準硬式野球のみならず、全国にもその名を轟かせた金沢医科大学・長森大将(6年=福岡大大濠)。その野球人生は、どのようにして彩られてきたのか。

父と始めた野球

 北九州市に生まれた長森の野球人生の始まりは、小学4年生だった。きっかけを作ったのは父の存在だった。福岡Yahoo! JAPANドーム(現・みずほPayPayドーム)へ連れて行ってもらったり、一緒に野球をしたりする中で、自然と野球に夢中になっていった。

 野球をしていた従兄弟の影響もあり、左投右打という珍しいスタイルからスタートした。所属していたチームはユメノベースボールクラブ福岡。対外試合はほとんどなく、クラブ内での大会や試合が主となっていた。父と遊びで野球をよくしていたこともあり、入団当初から思うようなプレーができていた長森。守備では一塁手と外野手を務め、打撃では大会では2打席連続本塁打を放つパワーを兼ね備えるなど、順調な成長を見せた。

年間110試合を戦った中学時代

 中学校では福岡教育大学附属小倉中学校の軟式野球部に入部した。この野球部、普通とは少し違う。1試合7イニングではあるものの、週末には4試合を行うこともあり、年間110試合をこなす。方針を打ち出したのは、顧問であり教頭でもある山下高志先生だった。
「宇津木妙子さんを彷彿とさせる高速ノックだった」
宇津木妙子さんといえば、女子ソフトボール日本代表を率いた名将として知られる存在だ。長森は山下先生の比類なきノックをそう振り返る。加えて平日は週3回、ノックやピッチングを中心に数をこなした。朝7時集合の練習も平日に2回あり、内外野に分かれてノックとポール間ダッシュを繰り返した。練習では守備を中心に数をこなし、試合ではそれを実戦で生かしながら打撃の力を試す。練習と試合で明確に目的を差別化した珍しいチームだった。

中学時代の長森

 そんな圧倒的な練習量と実戦経験の中で、長森はすぐにチャンスをつかむ。3年生が引退した後、1年生から代走として出場機会を得ると、限られた打席で次々と安打を重ねた。一塁手を主戦場とし、8月にはスタメンをつかんだ。当時の長森は良くも悪くも自由奔放で、自分の考えをそのまま行動に移すタイプだった。そんな「めちゃくちゃだった」長森をうまく引っ張ってくれたのが、投手で主将を務めていた太田だった。
「めちゃくちゃだった自分を、太田がうまく引っ張ってくれました」
 長森の個性を受け止めながらチームの中で導いてくれた太田の存在は、大きな支えだった。もともと強いチームではなかったものの、実戦の中で得た力を武器に小倉地区では優勝。50チーム以上が集まる北九州市の大会で2位に入り、最終的には県大会出場の快挙を成し遂げた。毎日が野球で精いっぱいではあるものの、雰囲気良くできたこともあり、長森は野球がとても好きだった。
 一方で、学業はなかなか手についていなかった。学年120人中113位。母は涙と怒りを長森にぶつけた。多くの生徒は北九州市にある進学校・小倉高校へ進学するが、坊主をはじめとする古いしきたりが苦手だった長森は、福岡大学附属大濠高校の一般コースへの進学を決めた。

 陸上部から野球部へ

 福岡大大濠への入学後、長森が最初に選んだのは野球部ではなく陸上部だった。もともと足の速さに自信があったことに加え、高校野球では下級生として雑用など様々な役割を担うことも多い。そうした時間よりも、競技そのものに向き合う時間を大切にしたいという思いがあった。

陸上部時代の長森

「陸上で学べる走り方を、何か野球に生かせないか」
 そう考えた長森は、陸上部で1年間活動し、走塁への自信をさらに深めた。そして2年生の5月、軟式野球部へ入部した。入部直後の5月に骨折したものの、6月には活動を再開。長森自身は公式戦に出場できる自信があった。しかし、陸上部から突如現れた新参者は、なかなか部全体には受け入れられなかった。先輩たちは異端児の長森を面白がって受け入れてくれた一方、同級生との間には距離があった。
 最高学年になると、長森は「1番・中堅手」の座をつかんだ。しかし、今度は監督との関係に苦しむことになる。ウォーミングアップからスパイクを履くことや、チーム独自のルール、夜8時まで続く部活動。一方で、高校軟式野球はチーム数が少なく、練習量に対して試合数は多くなかった。長森は、さまざまな理不尽さや非合理さを感じていた。
「監督は、1年生からの下積みを経験していない自分に厳しかった。周りに示しがつかなかったんだと思います」
 1学年上のチームは全国大会に出場していた。しかし、長森たちの代は秋の大会で初戦敗退。個々の能力は高かったものの、試合の中では「怒られるな」「やばい、やばい」という思いから萎縮し、勝利に向かって力を発揮することが難しくなっていた。
 毎日の厳しい練習で体は満身創痍となり、長森自身も塁間を投げることがやっとという状態だった。さらに3年生となった春、2度目の肉離れを起こしてしまう。なんとか夏の最後の大会に間に合わせたいという思いで必死にリハビリをしていたものの、監督から告げられたのは、長森にとって意表を突かれる言葉だった。
「お前はチームのために動いていない」
「怪我をしていても試合に出てもらう」
 復帰を目指してリハビリに励んできた自身の思いと、監督の考えとの間に大きな隔たりを感じた長森の気持ちは、そこで完全に切れてしまった。一般コースではあったものの、当時から医師になりたいという思いがあったため、最後の大会を残し、思い切って「退部」という決断をした。

偏差値40未満から始まった医学部受験

 ここから長森の先の見えない勉強生活が始まる。3年生の春に受けた模試の成績は英語50点台/200点、数学ⅠA30点/100点を下回り、偏差値も40を割っていた。入試前には偏差値44まで向上させるものの、現役時に受験した福岡大学医学部には到底届かなかった。
 予備校探しから始まった浪人生活。ある予備校の面談で、「何浪で受かると思う?」と聞かれた。長森は「2浪ぐらいですかね」と感覚的に答えた。それに対し予備校講師は、長森の考えが甘く見えたのか、「なんで2浪で受かると思っているの?」と詰めた。結局その予備校には入校しなかったのだが、「言ってからどうやったらそれが達成できるか考え、努力する」という長森の信条が、今後明らかになる。
 入校した別の予備校では1年間、午前8時から午後10時まで籠り学んだものの、偏差値は55。2浪目が決まった。

自分だけの学習方法

 受験勉強に本腰を入れ始めて3年目。医学部に合格できるような勉強をしている自信もなかった。そこで方法を大きく変え、それぞれの予備校の良い点を踏まえて、講師を予備校ごとにバラバラに選ぶ学習プランを自身で作った。1日の勉強時間は特段多くはないものの、利用した予備校3つ。講師とコミュニケーションを自分から多く取ることで、自己分析を深めた。
 2浪目の夏には偏差値58、そして冬にはついに60を超えた。志望校への判定も最低のEから、入試の年明けにはD、C、Bと向上していった。取り組んできたことが一つひとつ自信につながった。

背水の陣でつかんだ合格

 迎えた岩手医科大学の入試。一次の筆記試験は合格。これが長森には不要な余裕を生ませてしまった。二次は面接となり、医師となる人間としてふさわしいか口頭で問われる。手応えには自信があったものの、まさかの不合格。そこから立て続けに他大学の医学部も不合格となり、残すは金沢医科大学と埼玉医科大学。一気に追い込まれ、背水の陣となった。もう後がなかった。
 3浪目がすぐそこに見えていた中で、なんとか合格をつかみ取った。浪人生活の始まりに口にした「2浪で終わる」という予想、宣言を現実のものにしてみせた。大学生になったら、もう一度野球に取り組みたいと考えていた長森は、大学所有の野球場が綺麗だったこともあり、金沢医科大学への入学を決めた。

 浪人中も消えなかった野球への思い

 浪人中も野球への思いは人一倍大きかった。浪人中に草野球チームを作り、予備校にバットを持っていったことで、受付の人に嫌な顔をされたこともある。1浪目の終わりの2月には渡米し、ヒューストン大学でカール・ルイスを教えたコーチから陸上を学ぶツアーに参加した。他の参加者は実業団選手やインカレに出場するような選手ばかり。そんな中でも、「野球にどこか生かせないか」と学びを探していた。
 小学生の頃に父と始めた野球。年間110試合をこなした中学時代。陸上部から軟式野球部へ飛び込んだ高校時代。そして、偏差値40未満から医学部合格を目指した2年間の浪人生活。長森は一般的な道にとらわれず、自分が納得できる選択を続けてきた。その背景には、長森の意思を尊重し、好きなように挑戦させてくれた両親の存在があった。
「全体を通して、自分の好きなようにさせてくれた親には本当に感謝しています」
 父は野球を始めるきっかけを与え、母は学業の成績が振るわない時には厳しく向き合った。必要な時には支え、時には叱りながら、最後には長森自身の選択を尊重してくれた。
 大学での6年間にわたる膨大な学習と、再び始まる野球生活。長森は期待に胸を膨らませ、金沢の地へ足を踏み入れた。

【中編】へ続く。

文:金沢大学大学院・佐々木由翔(修士1年=一関第一)