
春夏通算39度の甲子園出場を誇り、うち3度の優勝を果たす全国屈指の強豪・日大三高から、金沢医科大学に進学した新井和郎(2年=日大三)。大学2年生ながらその卓越した技術は北信越中に知られている。今回はそんな彼の成長と挫折の人生に迫った。
主将として歩み始めた野球人生
埼玉県に生まれ、父の影響で野球に始めた。地域の少年野球チームに所属し、地道に力を伸ばして主将を任されるまでに成長。6年時にはセレクションを経て東京ヤクルトスワローズジュニアに選出され、そのチームでも主将を務めた。早くからリーダーとしての資質も評価されていた。
学年が上がるにつれて野球への思いを強めた新井は、地元の中学校に進学。学業との両立を見据え、軟式野球部に入部した。小学生時代に培った実力は確かで、1年時から捕手として試合に出場し、地区選抜にも選出された。2年時にはチームを埼玉県ベスト4へ導き、3年時には主将としてチームを牽引。県選抜にも選出された。主将として多様な部員との向き合い方に悩みながらも、その歩みは順調だった。

三木監督の言葉で進路を決断
実績を残してきた新井のもとには、関東圏を中心に甲子園出場経験を持つ複数の強豪校から声がかかっていた。その中で決め手となったのが、日大三高・三木有造監督(当時部長)の存在だった。試合視察の際、自チームの監督を通じて伝えられた「チームにぜひ入ってほしい」という言葉が、新井の心を動かした。両親の理解を得て野球に打ち込む覚悟を固めた新井は、プロ野球を目指して同校へ進学。さらに、小倉全由前監督のもとで技術だけでなく人間力の向上にも努めることを誓った。
期待を胸に入学した新井だったが、全国屈指の強豪校の練習についていくだけで精一杯。中学卒業後も自分で硬式球に慣れるための練習はしていたものの、思うように結果は出ず、肩の故障にも苦しんだ。
コロナ禍で見つめ直した原点
転機はコロナ禍だった。部活動が停止となり、寮生活を送っていた新井は実家で戻ることになった。この期間に新井は自分自身を見つめ直した。自宅でネットスローや素振りを中心に基礎的なメニューをこなしていく。小さい頃に行っていた練習をもう一度やり直しているような気持ちであったが、この練習は功を奏した。全体練習復活後の夏の練習で少しずつ自分のプレーができるようになってきた。全体練習や師の指導を仰ぐことができなくとも自分自身の力で能力を伸ばすことができたことは、大きな自信になった。
新チーム発足後は練習試合でスタメンの機会を得たものの、大きな結果は残せなかった。2年秋の都大会では背番号12でベンチ入りし、チームは準優勝。自身は公式戦での出場機会に恵まれず、悔しさの残る大会となった。
合宿で鍛えられた精神力、人としての在り方
正捕手は打力のある選手だった。だからこそ課題は明確だった。新井は冬の練習に打ち込む。日大三高では、12月後半から2週間の強化合宿がある。朝5時半からランメニュー、ジャンプメニューに始まり、3種類のメニューがあり、1日ごとに変えていく。練習が終わったら、21時半~22時の間に就寝するという合宿期間は特に規則正しく生活する。1年生の時にもこの合宿は行われていたが、当時はただきついという気持ちしか残っていなかった。
2年時の合宿では、肉体的にもそうだが、一番は精神的に強くなったと新井は語る。背番号2を目指す中で、競争の厳しさとプレッシャーを強く感じた冬だった。1学年20人しか部員がいない日大三高では、練習のノックでもミス1つが命取りになる。この時は「チームには甲子園に行ってほしい」という気持ちよりも「自分がスタメンになりたい」という気持ちが大きくなっていた。
3年時の春の大会でも背番号12番をつけ、チームは都大会準優勝。同級生が多く試合に出ている中で、自分はベンチで見守るしかできなかったことが、新井に秋以上の悔しさを感じさせた。対戦相手に、2025年ドラフト東京ヤクルトスワローズに1位で指名された、松下歩叶(法政大学)や、東京ヤクルトスワローズジュニア時代の同級生でもあり、同じく北海道日本ハムファイターズに3位で指名された、大塚瑠晏(東海大学)など世代屈指の選手もおり、プロの世界に入ることは、自分には難しいと考え始めたのもこの時期だ。この春の大会が終わり、新井の中では、「チームとして甲子園に出たい」という気持ちがより一層大きくなっていた。
しかし、迎えた夏の大会は準決勝で散ってしまった。新井も代走の準備をするのみで、試合に出ることはできなかった。
「勝たせられなかった。俺が悪い」——小倉前監督がそう語る一方で、選手たちは「自分たちが連れていけなかった」と受け止めていた。こうして、新井の甲子園への道は途絶えてしまった。
振り返れば、悔いが残る。「勝負に必要な要素が足りていなかった」その思いが強く残った。それでも、小倉前監督の言葉は今も胸にある。「練習は嘘をつかない」「裏表のない人間であれ」。その教えは、野球だけでなく人としての在り方にもつながっている。

2浪で医学部へ。野球を離れる決断
進路として大学野球も視野に入れていたが、野球を離れた先の人生を見据え、その道は選ばなかった。プロを目指す自信も持てなかった新井は、勉強で最も高いレベルを志し、浪人を覚悟で医学部への進学を決意する。以降は予備校を中心に勉強漬けの日々を送り、2浪の末、金沢医科大学に合格した。
再び選んだ野球と、主将としての改革
大学入学後は野球を続けるつもりはなく、勉強が第一であった。これも高校入学当初の練習と同様、授業についていくだけで大変だった。しかし、野球熱が非常に高い同級生の岩崎遼太郎(2年=桐蔭学園),山崎正一(2年=藤島)に誘われ、体験入部に参加した。練習の雰囲気はとてもよく、上下関係も適度で次第に「今までのことをチームに還元したい」と思うようになり入部を決意した。1年時は公式戦0勝。それでも2年時から主将を任された新井はチームの課題を分析した。つながらない打線と四球から崩れる投手陣から見るに、チームは個々の力に頼る傾向が強かった。また、試合では競ると失策が出てしまっていたことから「自分ができるプレー」をモットーにチーム作りを行った。練習メニューは大きく変えていないが、1つ1つのメニューの前に集合し、意識することの確認を徹底した。
北信越の舞台へ。春の躍進と手応え
迎えた北信越春季リーグ戦。初戦の富山大学医薬学部戦では、一時逆転を許しながらも、落ち着いて自分たちのプレーを貫き、再逆転で勝利を収めた。チームは2勝1敗で予選リーグを突破する。
本戦トーナメント初戦の金沢大学法文経国際学部戦でも、一度はリードを奪われながら、焦ることなく試合を運び逆転勝利。接戦をものにする力を見せた。
準決勝では福井大学医学部に敗れたものの、新井はチームの成長を実感していた。ピンチでも自発的に声を掛け合い、流れを相手に渡さない姿勢があった。
一方で課題も明確だった。経験の浅さから試合終盤には疲労が色濃くなり、野手を含めた選手層の強化が求められた。続く夏の西医体では敗戦を喫したが、前年と比べて接戦に持ち込む試合が増え、確かな手応えを得た。
創部初の北信越大会初優勝
春の自信は秋につながっていた。秋季北信越大会初戦は、春に負けた福井大学医学部。春準優勝のチームを相手にシーソーゲームの末、延長戦を制した。ターニングポイントとなった試合は、準決勝の金沢大学医学部戦。練習試合を含めても勝ったことがないという相手に打撃の調子の悪かった新井は不安を感じていた。しかし試合は初回から動く。先頭打者・新井の二塁打をきっかけに流れをつかみ、主導権を握った。松山明弘(4年=明善)が174球を投げ抜く力投で2失点完投。チームは決勝進出を決めた。
決勝も勢いそのままに勝ち切り、創部初の北信越優勝を達成する。決勝も勢いそのままに勝ち上がり、大学創立以来初の北信越優勝を果たした。来年もほとんどメンバーが抜けることなくチームの野球ができることは非常に大きいが、新井は満足せずに進んでいく。キーマンとして、投手は松山、野手は岩崎を挙げた。医科大の投手陣には絶対的な存在はいないことから、松山には投手として秋につけた自信をどれだけ伸ばしていけるかが課題である。投手も務める岩崎には、走攻守すべてに期待がかかっている。北信越選抜にも選出された実力者の彼はチームでは9番を打っている現状だ。「打順をかき乱すことでチームを活性化させてほしい」と主将の新井は語る。
甲子園出場という目標は果たせなかった。しかし、その過程で得た経験と課題は、確実に新井の現在地を形づくっている。舞台を準硬式野球へと移した今も、その挑戦の本質は変わらない。さらなる高みを目指し、新井は前へ進み続ける。

編集後記
隙間時間など、できる時間は勉強に注ぐこと、学業と野球の両立を実現させている新井。北信越地区選抜として9ブロック大会にも出場した新井だが、まずはチームの充実、勝利を大切にしていきたいと仲間思いの性格を見せた。高校時代の師の言葉通り、学業と野球に純粋に貪欲に取り組む。裏表ない新井の今後の野球人生に期待したい。
文=西日本選抜チーム解説者 兼 北信越地区大学準硬式野球連盟学生理事 金沢大学・佐々木由翔 (4年=一関第一)