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「青春時代のほとんどは、病院通い」。 それでも京都産業大・前原主将が諦めなかった理由

 学生たちが自ら執筆する連載企画「学生が描く、第77回全日本大学選手権大会」。連載第6回目は、関西地区編。3年連続7回目の出場を果たした京都産業大学です。高校時代に肩を痛め「野球人生が終わった」と絶望した前原隼人主将(4年=岡山理大付)。青春のほとんどを病院で過ごしながらも、準硬式という新たな道で再びグラウンドに立ちました。憧れの甲子園球場では父の夢を自らの手で叶えました。準硬式野球を通じ、家族・仲間への感謝の言葉が止まりません。

全国ベスト8の快進撃と、同志社大とのリベンジマッチ

 高校生の時に肩を負傷し、そこから始まった前原の大学生活。しかし、その挫折を経て選んだ準硬式野球で、仲間と共に全日本選手権の舞台に立った。学生野球最後の全国大会で彼らがつかんだのは「全日本選手権ベスト8」という輝かしい結果だった。
「全国の舞台で一勝するのが遠ざかっていたチームなので、先を見ずに目の前の相手を倒す。一戦必勝を心がけていた」と前原。
 その言葉通り、初戦では九州共立大学に5-3で勝利。続く2回戦では北海学園大学を4ー1で下し、確実に力を示していく。そして迎えた準々決勝の相手は同志社大学。同じ関西地区のライバルで、関西選手権では同志社大学に敗れている。この全日本選手権でリベンジを狙ったが、熱戦の末3ー0で敗戦。ベスト8で幕を閉じた。
 大会後、前原は「メンバー外の仲間や支えてくれた保護者への感謝を忘れずに試合に臨みました。人数が多い分、メンバーに入れない悔しさを抱える選手もいたと思うけれど、全員が練習できる環境を大事にしてきた。支えてくれたチームメイトには日本一に導くことができず申し訳なかった」と主将としての思いを振り返った。

前原隼人主将(4年=岡山理大付属) のもと、3年連続出場を果たした京都産業大は全国ベスト8入りを果たした

「終わった」野球人生から、甲子園2試合を経験

 肩を痛め「野球人生が終わった」とまで感じた高校時代。毎晩眠れない日々が続いた。だが両親をはじめ応援してくれる人のために「もう一度思い切りボールを投げたい」という一心で、リハビリに励んだ。高校野球引退から大学生になるまでの「青春」の時間は、ほとんど病院通いだったと言う。

 その成果もあり回復はしたものの「硬式ではもう野球はできない」と思い、準硬式で野球を続けることを選んだ。「自分と同じように怪我をして準硬式を選んだ人や、初めて野球を経験する人など、様々な人がいて野球を楽しんでやっていいのだと感じて、野球の原点である楽しんで野球をする魅力に気づきました」と語る。

 また、準硬式で前原は多くの経験をした。「第10回日台大学友好親善大会」では台湾遠征を経験し、国を超えて野球の魅力を共有した。また、2024年に神奈川県で開催された「第42回全日本大学9ブロック対抗準硬式野球大会」において、関西選抜のキャプテンとして予選を勝ち上がり、決勝戦で甲子園球場の土を踏んだ。九州選抜に敗れはしたものの、仲間を率いて準優勝。この日は「第3回全日本大学準硬式野球東西対抗日本一決定戦」の西日本代表としてもプレーし、憧れの甲子園で2試合も経験できた。

「ずっと夢に描いていた甲子園球場で野球をする事なんて想像もしていなかった。父が叶えられなかった夢を、準硬式を選んだ自分が叶える事が出来た事、両親を甲子園に連れて行けた事が何より嬉しい。両親は自分の事のように喜んでくれたし、涙ながら試合を観戦してくれた」と語った。

日台親善大会では日本代表のユニホームを着て台湾に遠征した

涙を流して観戦してくれた、父と母へ贈る言葉

 取材後、筆者の元に届いたのは前原が綴った両親へのメッセージだった。ここで紹介する。
「父へ 。ここまで熱中するスポーツを教えてくれてありがとう。 練習終わりに公園行き、日が暮れるまで秘密の特訓をしたことを覚えています。高校では寮生活をしているなか、寮に差し入れや試合を見に来てくれたこと感謝しています。父のような偉大な選手にはなれなかったけど、父から受け継いだリーダーシップ力、父が立てなかった甲子園球場で野球している姿を見せる事が出来て本当に嬉しいです。最後に、誰よりもファンとして野球を見届けてくれてありがとう。 これからも偉大な父として背中を追っていきます」

「 母へ 。まずは、世界一美味しい料理を約22年間作ってくれてありがとう。 僕が野球をしたせいで、母の休む時間や自由時間を奪っていたと思います。 それにも関わらず、嫌な顔を一切見せずに、負けた日は一緒に悔しがってくれ勝った日は一緒に喜んでくれ、一緒のように戦ってくれました。高校では、寮生活をすることになり、寂しい思いがあったと思うけど、迷わず「自分がしたいことをしなさい」と送り出してくれてありがとう。母のような寛大な心を持ち合わせられるように、この先も母を見習いたいと思います。ここまで、何不自由なく野球をやらせていただきありがとうございました」

両親も観戦した昨年の東西対抗戦(甲子園球場)。西日本代表選手として聖地でプレーした

準硬式で見つけた「原点」。次世代へのメッセージ

 文章には、取材時に言葉で表現できなかった感謝の思いが綴られていた。支えてくれる人への感謝を何よりも大切にできる前原だからこそ、苦しいリハビリや重圧を乗り越え、キャプテンとしてチームを全国ベスト8へと導くことができたのだろう。その姿は、単なる結果以上に価値あるものだ。

「キャプテンの重圧と責任感はすごくありましたが、副キャプテン筆頭に支えてくれて、楽しく勝つ野球を貫けたことが何よりも良かったです。また、エース升田 陽大(4年=愛知高校)は気分屋で扱いにとても苦労したが、試合になれば人一倍自分に厳しく野球に熱心なことは知っていたので、それを最後まで信じていた。他の4回生も、自分を信じてついてきてくれて感謝しています。日本一には届かなかったけれど、1番野球が好きで勝ちにこだわる貪欲なこのチームで全国ベスト8になれたことは誇りでした。後輩たちには、壁にぶつかっても野球を楽しむ原点を忘れずに、僕たちが果たせなかった全国制覇に挑んでほしいです。」

 怪我をきっかけに見つけた準硬式という道で、仲間や家族、そして野球そのものへの感謝を胸に戦い抜いた前原。その姿勢こそが、彼とチームに「全国ベスト8」というかけがえのない勲章をもたらした。未来へと託された思いは、確かに次の世代へと受け継がれていくだろう。

(取材・文/大阪教育大学4年・鈴置結希奈=四條畷)